林遠里は明治十年(1877年)種籾の貯蔵「寒水浸法・土囲法」の陰陽論を説いた勧農親書を発刊。その方法を各県の農家に広めた。明治十六年当地重留に「勧農社」を設置し、人工でゆがめられていた農業を自然に還すアイデアを発表し、全国に新しい農業技術と農民としての誇りを持たせた。遠里は自らも全国を歩いて抱持立犂(かかえもつたてすき)の操作を指導する馬耕教師の養成と稲作の画期的な改良を普及させた。
明治二十二年(1889年)にはドイツのハンブルグなど農産物出品説明会委員として洋行、フランス、イタリア、アメリカ各国の農業事情を視察帰国後は新しい農具の製作を取り入れた「筑前農法」の指導に社員を全国に派遣するなど日本農業の近代化に尽くした。遠里はスギ、ヒノキ、その他主要樹木を育てる林業の改良やワサビの栽培、増殖にも努めた。
福岡財界の安川敬一郎ら筑前農法に学んだ英才が六百人余りに達し、松方正義、井上馨、大隈重信、大山巌、金子賢太郎、榎本武揚などの有名人が勧農社の名誉社員となってその勤労精神を高く評価した。
遠里は明治三十九年(1906年)一月三十日七十歳で不帰の人となった。(案内板より)
福岡市早良区重留勧農社跡
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