その後、慶長16年(1611)筑前国主黒田長政の家臣高橋伊豆匡順は、金龍寺の衰退を黙視出来ず、自ら金龍寺の顛末を長政に告げて、福岡に移転、再建することの許可を求めた。 当初、荒戸山(荒津、現在の西公園)に新たな寺地を与えられ、再建され荒津山金龍寺と号し、前原の金龍寺はそのまま残された。た。その後、2代藩主黒田忠之が荒戸山に福岡東照宮(徳川家康を祭祀)建立の計画を建てた折、再移転し、現在地に移建されたものである。この時、従来の山号を改めて耕雲山と号した。この山号は太祖山金龍寺を福岡に移建した高橋伊豆匡順の法名から名付けられている。